読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

マイルドヤンキーにさよならを

おすすめの漫画、アニメ、ブログ、AV機器を紹介していきます

正義の人たちがインターネットを殺した

スポンサードリンク

こことは別に、自分の日常を描いた日記があったのですが、消しました。


1999から、いろんなサイトを作っては消してきました。
いろんなところで書いては捨てとしていた文章です。おもに日記であったり、自分の周りで起きた出来事について、思ったことや感じたことをオチもなくつづった文章です。
特に見て楽しいものもないけれども、生きてきた記憶として。
昔は、一日の辛いこと、人生で考えること、どうしようもなくなった憤りや苦痛を、全部文章に書き起こして、それを外部化していたのだけれども、最近、それがうまくいかなくなっていて。
それは自分が昔に比べて物を考えなくなったのもあるだろうし、インターネットが変わってしまって、自分の考えや、気持をうまく表現する場ではなくなり、自分のことよりも、みんながみていて、役に立つことや、考えのヒントを各場所になってしまったからだろうと思う。
自分のブログは、自分のブログではなく、公共のものになってしまった。誰もが、誰かの目を気にして、文章を書く。みている人を想定して文章を書く。
昔のインターネットの文章は、例えるなら、海に流すボトルのようなもので、どこかに流れ着いて、誰かに届けばいい。そんな感じのものだった。
ブログというのは、リアルの人間関係から切り離された、全く、普段の自分のペルソナ、対外的に見せている顔とは別の、いうなれば“本当の自分”というものをさらけ出せるものだった。誰かへの悪意。自分への悪意。世界への悪意。そういう普段生きていて、意識をしてはいけないと思いながら生きている日常から、遊離して、全く別の、自分の深い所にある人格と意思を吐き出す場所だった。




今のインターネットは、リアルの自分と結びつきが強すぎると思うし、また、みんな、ブログの上でもペルソナをかぶって生きている。辛いこととか、そういうのを出さずに、楽しいこと、こんなに大成功しました、とか、これこれの商品を買ってとてもよかったとか。リアルの人間関係よりももっと分厚いペルソナをかぶっている。それがいいか悪いかは、特に問わないけれども、生きづらいだろうなと思うし、彼らの、本当の自分、自我、自己というものはどこにあるのだろうと思う。難しい。生きるのも、考えるのも、感じるのも。




楽しいことって大切だし、自分に言い聞かせていれば、気のせいでも楽し気持ちになれる。でも、人間、どこかで弱音を吐かないと生きていけないし、そういう場所は誰にだって必要だと思う。
インターネットがずっと、自分にとってその場所だったのだけれども、どうにも、最近、そうではなくなってしまったような、気がする。息苦しい。




最近のインターネットは、“正しい人たち”“正しくて普通の人たち”が多すぎるし、そういう人たちは、正義のためなら、どんなことをしてもいいと思っている。
苦痛で、ほかに言葉を放つ場所がなくて、負の感情を吐き出す場所がなくて、それをインターネットに放流したとする。そういう言葉というのは、たいてい、強い言葉であったり、誰かに対して不快である言葉であることがおおい。"日本死ね”とか“おれが幸せになれないのは全部女が悪い”とか。
そういう、その人の絶望の叫びに対して、それをたまたま見つけた、正しい人が、周りの、正しい人たちに拡散する。正しい人たちは、その人をよってたかって、ぼこぼこにして、正しさで押しつぶす。もともと、その言葉を発した人は、その言葉が、間違ってるのもわかっていて、それでも、自分の命や命よりも大事なものを守るために、その言葉を、海に流すボトルに入れて流したのに。だけど、今のインターネットには、海に流す、宛先不明のボトルというものは存在しない。必ず、誰が流したのか特定して、そして、その言葉に対しての責任を取らせようとする。言葉の是非だけではなく、その人の人生や、生き方や、その人の社会的な地位も含めて。正義のためなら何をしてもいいと思っている人たちは、その人を殺すつもりで殴ってくるし、その人がたとえ死んでも害虫が一人消えたというくらいにしか思っていない。



そして、“正しくて普通で正義のために何をしてもいいと思ってる人たち”の次にやってくるのが、“ただ、誰でもいいから、一方的に暴力をふるいたい人たち”彼らは、自分たちに正義があって、相手がなにも言えないのをいいことに、ただただ自分の気持ちよさのために、殴りまくる。相手が弁護しても、助けてといっても、自分たちに側に正義があるのだから、相手のそういう言葉は、ただの“責任転嫁”であり〝自分のしたことを反省していない”言葉としてさらに、相手を殴る材料になる、インターネット上からいなくなったり、または相手が死ぬまで、本当に殴るのをやめない。
その人の日記の中に、日常のことが書いてあれば、そこからその本人を特定して、名前住所をさらして、たたくなんてことも平気でする。人にはいろいろな事情があるのに、そんなことはお構いなく“自分の常識や倫理”を“世間一般の普通の倫理”として、その人の人生や生き方や考え方や生活を否定する。


それをされる、というのは、どういうことか。
魂からの、“負の感情の発露”の文章、言葉というものは、“その人のパーソナルの一番繊細でデリケートな部分”から発せられるものだ。〝生身のその人自身”“命と同じようの大切で大事なものだ”それを、罵倒して、踏みつぶしてすりつぶす。正義の名のもとに。



いつの間にか、インターネットはそういう場所になってしまった。



誰も、本当の自分の話をしない。自分にとって、大切なことを話さない。自分の、生きるよすが、自分を苦しめる本当の苦痛について話さない。


インターネットからは、本当のことはなくなって、キュレーションメディアのような、“お役立ち情報”と、面白い小話だけが、どこまでもどこまでも広がる、人間のいない荒野になってしまった。



日記的な文章を、たぶん、もう、僕は書かないだろうし、書けないだろうと思う。



1990年に生まれた、マスではない、個人が自分の人生を誰かとひそやかに共有できるようなインターネットは、もう、終わってしまったんだ。





どうもうまく伝えられなかったみたいなので、続きを書きました。
nectaris.hatenablog.com


スポンサードリンク


スポンサードリンク