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ラーメンの外側ってどこなのか。真のラーメンとはなんなのか。

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ちょっと前にヤルキメデスさんとはてなブックマークでやり取りした、ラーメンについてのお話。ほとんど私信です。




ヤルキメデスさんは、ラーメンとはスープまで飲んでおいしい、健康なものになって初めてラーメンとして完成する。といい、僕は、もともとスープと麺が一体であった中華料理から概念から分離したので、スープと麺の渾然一体というのは出発点であって、ゴールではない、と言った。そこまでが前回のやり取りの大まかなあらすじです。



で、僕は、まあ、そういう適当なネット上のやり取りだと思っていたのですが、まじめなヤルキメデスさんは、その完成系のラーメンを求めて、自分でラーメンを作ってしまった。すごい。これはすごい。あと、別の意味でとてもすごいとも思ったのですが、それは後で。



で、僕も考えてみました。真のラーメンについて。

ラーメンの完成系、ラーメンの中心とはどこにあるのか、ということに。ラーメン自身が食べ物である以上、確かにヤルキメデスさんの言うとおり、その中心は、「スープまで飲んでおいしくて健康にも良いもの」になると思います。そしてそのようなラーメンは多分、東京とかのオシャレ系のラーメン屋や、ラーメン道系の腕組みハチマキ集団でそういう道を目指す人によっていくつか作られているでしょう。そして、そのようなラーメンは確かに正しい。でもそれはラーメンなんでしょうか。健康的でおいしい麺料理。それは、はたして“ラーメンである必然性があるのか”ラーメンでなくても、おいしくて健康的な食べ物はあります。ラーメンがそのようになった時に、完成系というのなら、それ以外のおいしくて健康的な食べ物というのは、完成された食べ物なのでしょうか。食べ物としての完成系がおいしくて健康的、というだけで満たされるのでしょうか。おいしくて健康的、は“食べ物、料理の中心”ではあるけれども、ただ、料理の本質、というものはそこにはないような気がします。


ラーメンはもともと薬物、労働のカンフル剤ではないか

ラーメンというものは、食事ではあるけれども、どちらかというと劇物に近いもののような気がします。
旨みをこれでもかと重ねて、脳の神経に直接旨みを流す。




疲労した労働者が脳の神経を麻痺させるための飲み物、食べ物。近年はともかく、戦後、ラーメンが生まれたすぐは、労働者が、そして仕事帰りのサラリーマンが、そういった疲れを洗い落とす一人で(もしくは友人と)食べる類の食べ物だったと思うんですよ。屋上のカレーライスやどんぶり物のように、腹に掻きいれる為の食べ物。シンプルな構成。そして、その、ストイックさ、孤独さが、ラーメンの本来のものだと、僕は考えていて。ただ、近年のラーメンというものはそういうものではないらしい。



道を目指してラーメンは高級な食べ物になった、がそれでも安い。

最近のラーメン店、500円以下で食べられるところってあんまりない。福岡天神とかそういうところくらいで(まあ物価が上がったって言うのもあるけれども)大体が700円以上で、基本のラーメンでも1000円を超えるところとかある。そしておいしいし、素人にもおいしい不味いが分かりやすい。そしてブームになっている。
そしてそれには長引く不景気も貢献していて、新しい食べ物や珍しい食べ物ということになると、今でも値が張るけれども、ラーメンということになると、フレンチなどの有名店に行こうと思ったら昼のランチの安くても5000円するがラーメンの有名店なら値段が上がったって言っても2000円はしない。やすいし、人が集まるので、ラーメンの店が増える。



ラーメン道、とは何か、なぜ生まれるのか

で、そういう最近のラーメン屋は、何故か剣道や茶道のようにやたらと“道を究める”という雰囲気を出してくる。
ラーメンは汁に麺と具というシンプルな構成だから、“道を究める”という精神に合致しやすいし、“一椀のどんぶりでどうするか”というハイクにもにた、決められたフォーマットで如何に最高のものを作るか、ということが、やはりそのような“ラーメン道”という概念を後押しする。



じゃあ、完成系のラーメンとはなんなのか。

そのラーメン道の先になるのか。ただ、剣道にしろなんにしろ完成系というものはない。“道”としてしまった以上、完成系というものはなく、弟子、その弟子、と常に先へ先へ次の世代へと完成系を追い求めていくものに変わってしまうから。
ここで、ラーメンの“外側”について考えてみようと思います。



どこまでをラーメンと言えるのか

つけめん、まぜそば、あぶらそば、ここらへんは、もう、社会的に認められたラーメンです。
鍋ラーメン、鍋のシメに“鹹水をいれて作ったラーメン用の麺”を入れて食べるという行為も、また、ラーメンとして認められるでしょう。
カップラーメンは間違いなくラーメンです。
ラーメン用の麺、鹹水を聞かせて作った腰のある麺を使ってさえいれば、ラーメンを名乗れるのでしょう。
では、その麺を使ってない汁そばはラーメンと呼べないのか。
本場、中国の麺料理では、鹹水を使っていない麺のラーメンもあります。
鹹水を使ってる麺である、ということは必要条件にはならない。
だから結論としては、恐ろしいことに
「麺があり、それを調理していて、その範囲がパスタ、そば、焼きそばなどに被らなければ、ラーメンと呼んでいい」となると思います。おおざっぱ!



ラーメンを引き算で考える

真の、とはまた違いますが、ラーメンの根源というものを考えると、ラーメンに含まれる他の要素を全部抜き去ったあとに残ったものが、それなのしょう。それは。
「麺を、中華風のスープに乗っけたもの」
といっていいと思います。



そうやって考えると、ヤルキメデスさんの作ったラーメンは、とてもラーメンの根源に近いなあ、と僕は思うわけです。ヤルキメデスさんは、そういうつもりでつくったのではないでしょうが、家族の為に作る麺料理というところが、ラーメンの根源では、そしてヤルキメデスさんはそれを作ったのでは、と、僕は思うのです。






私信でした。






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