マイルドヤンキーにさよならを

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僕のこと、僕の住んでいた町のこと

とりあえず文章を書こう、なんでもいいから、文章を書こう。そう考えたとき、ブログという選択肢は本当にいい。自分の正体を明かさないまま書くことができる。それについて何も責任を取らないで書くことができる。



リアル、普通の日常で生活していると、考えないこと、考えてはいけないこと、考えると苦しいことが多くって、物事をどんどん思考しなくなっていく。だんだんといろんなものに無関心、無気力になっていって、透明になっていく感じがする。いろいろなことを忘れていくし、いろいろなことを考えなくなっていく。



最近久しぶりに大量に文章を書いて、それはもう、脳から思うまま、脳直の状態で文章を書いていて、それが少しましになった気がする。テーマとかを決めずに、頭に思いつくまま、思いついた順番にだらだらと出力する。出力しているといろんな雑念が浮かぶ、どうでもいいこと。小学校の時の廊下、掃除当番、掃除当番でもめたこと、自分はクラスの中のポジションが弱かったので、いつも雑巾がけだったこと、箒が握りたかった。みんなトイレ掃除は適当にしていて、でも、水を撒くのだけは楽しくて、だから、水を撒くときだけはテンションが上がって、廊下の外まで水浸しにしていたこととか。そういう、どうでもいいことが頭をかすめていく。普段は忘れているし、思い出しもしない、小さいこと、どうでもいいこと、そういうことが、思考をオフにして、ただ文章を書くことだけに、自動書記のように勝手に手を動かしていると、あふれてくる…というほどあふれてはこないけれども、思い出されてくるのだ。自分の住んでいた学校は郊外にあった。郊外といっても、それぞれの地方で郊外の形は変わってくる。大坂を中心とした関西の郊外、神奈川の郊外、金沢など地方都市の郊外。関西や神奈川の郊外は、もともとその近くに栄えた町があり、その栄えた町の合間にある原野や森、山を切り開いて作られる郊外で、新しいものと古いもの、いろんな文化がまじりあった郊外を形成する。一方、僕が育った郊外は、北関東の郊外だった。北関東の郊外は、もともとの町も何もないところに突然現れる。国道沿いではなく、電車の路線が、何もない畑や原野にひかれて、そしてその周辺に出来上がる。これは、ほかの地方の郊外が、自動車での通勤というものを前提としているのに対して、東京圏の通勤というものは、電車に頼らなければならない、という条件にも起因している。ともかく、北関東の郊外というものは突然、何もないところにあらわれる。既存にある大きな町、昔の宿場町をその路線は通っていはするけれども、それとは少し離れていて、(何せ、とにかく巨大な土地を確保できるので)いきなり巨大な面積の住宅団地が現れ、そこを、ほぼ同じ面積に区画した、ほぼ同じ大きさの家が同じように立ち並ぶ。家の価格も大体同じくらいなので、同じくらいの年収の家庭が住み、同じくらいの子どもたちがいる。なにもなかった、広大な土地に、ほんの数年で、ほぼ同質な人間で占められた、巨大な空間が出来上がる。
そういう、北関東の郊外が、僕の生まれ育った町だった。



いまは、その町は、老いを迎えている。僕と同じようにその町で育った人間が、その町を出て行って、帰ってこない。再生産を最初から考えていない町は、僕の両親の年代の人間だけで構成されていて、小学校に通う子供たちの数も少なくなった。スズメバチの古くなった巣のように、この町は捨てられた街なのだろうか、と思う。



ふと、広告をみると、かつて、自分の両親や、両親と同じような社会背景を持つ人たちがかった住宅とその住宅団地と同じように、巨大なタワーマンションや、新しい住宅地の物件が売り出されている。それらの物件も、再開発された巨大な更地の上に作られていたり、新しく伸びた電車の路線の先に作られたニュータウンに作られていたりする。4000万円の物件の35年ローン。子供が大きくなってさらにその先、それが35年後だ。



いつか、その、建物や町も、僕が昔住んでいた町のように、抜け殻になっていくのだろうか。


グラスホッパー (角川文庫)

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融解するオタク・サブカル・ヤンキー  ファスト風土適応論

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「苦痛から逃げることを許さない」「他人との関係性以外の自分を定義する方法がない」

「苦痛から逃げることを許さない」

大麻のない社会と大麻のある社会

苦痛を消すことをよしとする社会と、苦痛を消すことを良しとしない社会。
社会でうまく生きていけない人間が、そこから逃げ出すことを良しとしない社会。人を押しつぶす社会。
個人的には、大麻は反対だけれども、それと似たような効果を持つもの、例えばアルコールとか、たばことか、そういうものも、社会的に、“良くないんの”として扱われている。
でも、社会でうまくやれない人間、地べたをなめる人間っていうのは一定するいる人間わけで、そういう人に慰めを提供しない、ただ、辛酸をなめて上だけ眺めて生きてろっていうのは、あまりにも優しくないと、そう思う。
シンナー遊びっていうのがかつてあって、(今もあるのかもしれないけれども)シンナーとかの有機溶剤をすって、それで幻覚とかを見るので、それでトリップするというもの。
でも、シンナーでみる幻覚というものは、薬物の関係上、不安であったり恐ろしいものであったり、なにか殺されるような存在や恐ろしい物をみるらしい。それでも、シンナーを吸うっていうのは、たぶん、現実が、その“漠然として恐ろしいもの”よりもはるかに恐ろしいものなのだろうなと思う。


逃げる先はあるけれども、そこにも社会がある

現実は、現実で成功していたり、まあ、世間で幸福と言われている人間や、脳みそが壊れて、幸せホルモンがドバドバでている人間以外には、ちょっときついもので、そこから逃れる手段っていうのが、たぶん、人間社会には必要なのだと思う。
メンタルを病んで、メンタルクリニックで投薬というのは、踏みつぶしてくる現実に対して、その踏みつぶされる痛みをちょっとだけましにするようなもので、その現実の足の下から逃げ出させてもらえるものではない。
大麻とか、そういう薬物でなくても、アニメとか、スポーツとか、インターネットとか、そういう、それ以外の、既存の価値観から逃げられるもの。そういうものは、全部、同じように尊いし必要だと思うのだけれども、現実はそうでもなくて、現実の力関係に強くリンクしている趣味、スポーツとか、そういうものが尊ばれるし価値があるものとして扱われている。なんだかなあ。




「他人との関係性以外の自分を定義する方法がない」

ひつようなのは、現実ともう一つの世界

価値観が別の、その世界で、自分が成功できる、自分の価値観が既存されない何か。
ある程度、別の世界がたくさんあれば、そして、その世界が小さければ、その小さな世界で、王様にも成功者にもなれると思うけれども、インターネットとか、情報化で、細かいたくさんの世界がつながってしまうようになったら、その小さな世界でもなかなか王様になれないよなあ、とおもう。
インターネットでブログを作って、PV月1万いった!って喜んでいても、それより上にいる人間はごろごろいるわけだし可視化されるようになってしまった。
自分だけの小さな世界に閉じこもって、そこで盆栽を育てるようなことができればいいんだけれども、今の世の中は誰かとつながっていることが当然になってしまって、回線を切ってひきこもる、ということが(例えば電車の中でも必ず誰かに(ゲームなどでも)つながっている)難しくなってるよなあ、って思う。


車はなんで売れなくなったか

車が若い人が買わなくなった、っていうのも、若い人はお金を持ってないというのの他に、車という趣味が盆栽的な、“自分一人の世界で車と対話する”タイプの趣味だからだと思う。車に乗ってる間は、自分一人だし、誰かとつながってない。車と自分との対話。世界と車を通じて対話するタイプの趣味で、そこには、他人とのつながりというものがない。
最近は、そういう、自分自身を見つける、自分自信と対話する、自分が何者か知る、というタイプの行動自身が顧みられなくなっていると思う。誰かとの関係性の中でしか自分を定義できない人間が増えている気がする。


今、社会を覆う2つの問題「苦痛から逃げることを許さない」「他人との関係性以外の自分を定義する方法がない」

息苦しい理由って、結構これが大きいと思う。
自分の世界で盆栽を育てるみたいに、何かを行うという趣味が、あんまりない。そして、現代、そういう趣味ってネクラ系ということで、ちょっと白い目で見られることが多い。
盆栽系のゲームもあるけれども、ちょっとググってみたら、結局ほかの人の攻略法とか、短期で結果を出す方法とかが目についてしまって、目についてしまったら、もう、その比較や、裏技、チート技に引っ張られてしまう。自分は使わない!と強い意志を持っていても、“あえて使わない”という感じで、それに引っ張られていることになるし、そもそも“ググらない”ということでさえ、強い意志がいる。自分の気にしていることや興味を持っていることを、インターネットでググらない、ということさえ、今の、回線でみんながつながっている世界では、かなり強い意志がいる。




ひきこもることが許されない、ひきこもったとたん、世界のすべてから隔絶される世界に、今、私たちは生きている。


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自殺したい、辛い、死にたい、つかれたと思ったときに、読むべき漫画9選

一般的な話ではなく、ただ、自分にとって、それが力になる漫画だからです。誰にもお勧めというわけではありません。



ただ、これらの漫画は、辛いときに感じる虚無のようなものに、ものすごくリンクする部分があって、だから、自分以外のそういう辛い人が読んでも、ある程度元気?(元気ではないな元気は出ない)、ええと、虚無のようなものが抜けていくのでは、と思います。


大日本天狗党絵詞/黒田硫黄

天狗になった少女のしのぶと、その天狗の師匠の物語。なにもかも失って、自分が自分であるものが名前だけになっても、魂がなくなっても、生きている限り生きているし、生きているなら生きていかないと、というのを感じさせてくれる。途中に出てくる、煙突掃除の青年が、結局どうなったのか、色々なものが何も語られないまま終わる。でも人生なんてそんなものだと思う。


カリクラ 華倫変倶楽部/華倫変

カリクラ―華倫変倶楽部 (上) (Ohta comics)

カリクラ―華倫変倶楽部 (上) (Ohta comics)

カリクラ―華倫変倶楽部 (下) (Ohta comics)

カリクラ―華倫変倶楽部 (下) (Ohta comics)

全てが、失敗で、辛い、何もかもうまく行かない。そういう短編が詰まっている。花、という室町末期の宿場町の風俗嬢と変態和尚の話が、とても好きで。魂の一部がそれでできているといっても過言ではないです。「まあ、いいか、ここには花があるし」という、虚無とも諦観とも違う何かを現したその言葉がものすごく好き。人生って言うのはきついことや辛いことをかみしめて生きていくしかないのかな、という問いかけに対して、「そうだよ」というような本であるし、結局作者の花倫変さんは自殺してしまったのだけれども、生きていることを諦めて生きていたら、死ぬことだって諦められる。その続きの上にあって、ただ、そこに、花があるなら、それで、もういいや、って思う。


風の谷のナウシカ/宮崎駿

土鬼の住む、死の匂いの強い土地、そこでには死を待つ人々がいる。死こそが彼らの救いで、生きることは苦痛でしかない、そういう世界が、腐海の周りには広がっている。それでも生きている限り死ねないし、悪政と搾取と、病気と蟲と瘴気におびえながら、コケのように地面にへばりついて、いつか訪れる死後の世界に希望をつなぎながら生きている。
ナウシカは、そんな彼らをみて、そんな彼らを知って、そして墓所へ向かう。そして墓所の中には、世界が再生されたときに用意されている、幸福で、憎しみや苦痛や絶望のない、新しい人間の卵が用意されていた。
ナウシカは、そんな新しい人間に対して、それは人間ではないと看過して、その卵を破壊する。苦痛の中で、血を吐いて血を繰り返し吐いて、幾多の死を繰り返して飛ぶ鳥こそが人間だと。人の切望と死を望む人間の苦痛を目の当たりに見ながら、こういうことをいうナウシカは、傲慢だと思うし、でも、それを正しいとも思う。


ヒミズ/古谷実

ヒミズ コミック 全4巻 完結セット (ヤンマガKC )

ヒミズ コミック 全4巻 完結セット (ヤンマガKC )

生きる意味を探す、自分の人生がすでに終わっていて、残っているものは、ただ自分の命だけ。だから、この命を有効に使いたい。自分の命を弾丸に例えるなら、無駄うちはしたくない。だから、人を殺すことに決めた。どうしても殺さないといけない悪い奴を探すのだけれども、そううまく行くものではない。そして、その間に、大切なものも出来て、でも死ぬのだからそういうものを作るわけにはいかない。葛藤。
生きている、ということは、生きているということ以上の意味はない。でも、生きていることはそれ自身が生きようとすることを内包していて、だから、生きている人はうまく死ぬことができない。命は溢れていて価値はないけれども、死には価値がある、だから死を抱え込んだ人間は、その価値を手放すことができなくなる。


ミスミソウ/押切蓮介

人を押しつぶすもの。雪。雪深い街で、起こるいじめとそれによって家族を全員殺された子。その子の復讐の物語なのだけれども、結局その子とその子以外の全員が、この街を覆う何か思い人を押しつぶす何かにつぶされている。冬の雪の中で物語は始まり、春が来る前にこの物語は終わる。戦えるものと敵があるものは幸福であると思う。人は敵を作るためにいじめをするし(人を不快にさせることは罪だし、不快な人間は悪なので、だからそれをいじめることは正義なのだという公理)誰かの味方になる。そこから出ることはできない。


花咲ける孤独/山田花子

花咲ける孤独

花咲ける孤独

嫌感あふれる作品群。
不快感や苦痛や悪意に溢れている。それがギャグに昇華されているのかといえばそこまででもない。誰かの助けになるかと言えばそうでもない。ただ事実として、そのような物語があって、それは現実にもあるだろうし、今もどこかでリアル現在進行形で起こっていることなのだと思う。ただ、それがそこにある。読後感は華倫変の作品にも似てて、「それはそこにあって、そのままなので、それを受け入れてかみしめるように生きていくしかない」とそういう気持ちにさせてくれる。


黒い羊は迷わない/落合尚之

誰も自分を認めてくれずに、否定する世界で戦う話。
宗教団体に育てられた少女と、母親からねじれた育てられ方をした少年と、その宗教団体に通う少女。
ディスコミュニケーションがあり、彼らは決してお互いに共感しあうことはない。お互いが相手に勝手に自分の幻想を押し付けて、救ってくれる、救えると思うけれどもそれは一方的な決めつけで、結局個人同士で否定しあうしかない。それでも、戦って、生きていく。自分自身のために生きる。だから、誰かを救うということや救ってもらうということに依存する必要はなくなっていく。その依存のない世界は寂しいけれども、でも、そうやって戦っていく子どもたちの話。


さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ/永田カビ

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

あー、がんばろう、って思う。
一人で無理して生きてく必要はないんだ。誰かを頼っていいんだ。
孤独だってことに気づいて、気づいたら、お金を払ってもいいから埋めていいんだ。
それは必要なことなんだ、って思う。必要なことなんだ。


いちえふ 福島第一原子力発電所労働記/竜田一人

いちえふ コミック 1-3巻セット (モーニング KC)

いちえふ コミック 1-3巻セット (モーニング KC)

原子力発電所内での除染その他作業の漫画。
ドラマチックなことは起こらず、そこには、どこまでも日常がある。異常な状態ではある。でもそれは日常なんだ。
風の谷のナウシカの、瘴気マスクを着けて森へ入っていくような、装備と点検、そういうことを毎日行って、それでも、普通にみんな日常の話をするし、ご飯も食べるし、どうでもいい小さいことにたいして気にしたり、人と人が出会ったり別れたり、新しい作業があったり。特になにもドラマが起こらない。ただ、そこには、変わらない毎日がある。
どんな場所でも日常があって、人はそこを生きている。今辛い、非日常みたいな緊急事態であったり、どうしようもない追い詰めらえた詰んだような状態であっても、そこには、日常があって、そして、日常を積み重ねることによってしか、その“普通ではない異常な状態”を解決することはできないんだ。






あまり、解説になっていない解説だし、ここに書いた感想は本当に個人的なもので、ただ、こういうことを感じて、辛いときに勇気づけられる…というほどでもないけれども、ろうそくの炎くらいの元気とか気力がでたり、釣り天井が落ちてくるレベル追い詰められてる精神状態が空が落ちてくるんじゃないかっていう杞憂レベル(または北斗の拳)になったり、そういうちょっとだけ力が出てくる感じの作品です。
読む人によって、受け取るものが全然違うと思うので、参考にはならないと思うけれども、ただ、どれもすごい名作で、健康な時に読んでも普通に面白く読めるので、是非よんでみて下さい。



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