マイルドヤンキーにさよならを

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インターネットではかつて、“普通の人”の日常の話が読めた

先日書いたこちらの記事の補足です。

nectaris.hatenablog.com



どうにも誤解されている感じなので書いておきますけれども、自分が、そういう風に自分の話を書けなくなって嘆いているのではなく、どこか、知らない誰かが、自分の日常の些細な、けれどもどこにも日常では吐き出すことのできないそういうシコリや思いのかけらが、放流されていたのがかつてのインターネットで、そして、そういうインターネットを僕は愛していて、そしてそのようなインターネットがなくなってしまったことを嘆いているのです。



自分の経験の話をします。
かつて、自分の好きなサイトがありました。そのサイトは、70代の方が運営していたブログで、毎日のちょっとした思ったこと、感じたことを日記にして書いているブログでした。特に落ちもなく、他人に見せるための書き方の文章でもなかったので、日々の記憶のメモだったのでしょう。そこで書かれていたことは、たぶん、その人が普段言うことのできない、妻への愚痴であったり、友人への愚痴であったり、また反対に、妻への感謝の言葉であったり、子供とその孫のこと、たぶん、思い出したけれども、誰にも話していない、昔の思い出であったり、日常では決して吐き出すことのないであろう、その人の人生の一部でした。写真があったり、俳句があったり、一応、ブログ村のような、ランキングにも登録していたので、誰かが見るであろうことを想定していたのだと思いますが、本当に素朴で、人生を切り取った感じがして、良いブログでした。



で、その人が、ブログで、「最近の若者は物欲がない、車も、バイクも買わない。自分のときは欲しいものがたくさんあったから頑張って働いて、そして自分の稼いだ金で買ったものだ」というような、日記を書いたんです。それは、その人がリアルの日常で出会った、店の中での出来事だったのだけれども、それが、どこかのtwitterで拾われ、拡散されて、コメント欄も荒れて、そのおじいさんは謝罪をしたんですが、そのまま、サイトを閉じてしまいました。



普通の日常を送っている人の、素朴な考えが140文字でなく、もっと長い文章で読める、というのは、とても貴重です。自分以外の人間が、どうやって物を考え、何を見て、何を感じて生きていくのか。そしてその自分の人生をどう受け止めているのか。確かに、ほかの短文投稿サイト、たとえばtwitterを、他人の目を気にしないで見せるためではなく、自分のライフログのように使っている人もいます。しかし140文字はあまりに短い。140文字であらわされる文章は感情の反射なので、その人が、心の奥底でどのように自分と世界をとらえているのか、それをわかることはできません。



そのように、普通の人が、自分の感情を日記のように書くのなら、SNSにしろ、という意見もありますが、決して、SNSも安全な場所ではないし、それにそういう場所で書かれたら、私が見ることができないじゃないですか!自分はそういう、人間の文章が見たい。きゅレーションサイトや、アフィリエイトサイトのような、人間なんだかロボットなんだかがかいたのかわからないような文章ではなくて。



でも、結局、今、インターネットで生の人間の文章を書くことは難しい。炎上しないように気をつけていても、炎上することはまれにあるし、その場合、自分自身の誰にも話していない一番大切で繊細な部分を記したブログは、自分自身そのものなので、ダメージが半端ない。



結局、今、インターネットで生きてブログを書いていくことができるのは、ロボットみたいなアフィリエイトブログか、メンタルがものすごく強いブロガーか、ちゃんとインターネットのリテラシーが高くて、絶対に炎上しない記事を書けるプロのライターれべるの文章能力の持ち主、ということになる。とくに、アフィリエイターみたいな、自分の言葉でもない、誰かの記事を編集してはっつけるだけのブログなら、内容でいくら炎上しても全然傷つかない。だから、そういう、ロボットみたいなブログがどんどん増えていってるのが、今の状態なんだと思う。



誰にも見せるつもりはないけれども、誰かに話したい、王様の耳はロバの耳みたいな、そういう、個人のささやかなブログ。自分はそういうものがみたい。それが唯一みれる媒体がインターネットだったんだけれども、(ほかの書籍とかだとどうしても他人に見せたいという自我が出てきてしまう。文学フリマでも時々いいものがあるのだけれども、やっぱり、エンタメ色というか『見る人の目』を意識したものになってしまう)それは、もう失われてしまったのだなあ、と思った。前回の記事で書いたのは、そういうことです。自分は、もう、護身完成しているので、そう簡単に炎上もしないし、炎上してもそんなにダメージは受けないよ。前回の記事の冒頭で書いた閉鎖したブログというのは、そういう自分自身の日記みたいに書いていた、そして、もうずいぶん更新していないブログを処分しました。そのブログから張ってるかつてのリンク集からリンク先へ飛んだんだけれども、ほとんどのサイトが閉鎖したり、2009年あたりで更新が止まっていたよ。




あと、悪意と善意(正義)について。
あとでまたちゃんと書くけれども、「日本死ね」と書いた増田は悪意で、「死ねとは何事だ!口汚い!日本が死んで困るのはお前だ、日本から出て行け」って言った側が、正義、です。
すりつぶされてすりつぶされて、そして口から出た呪詛が日本死ね、なので、あれは、悪意からでた言葉だし、「死ねとは何事だ!口汚い!日本が死んで困るのはお前だ、日本から出て行け」といった人たちは、自分たちが、正義だって信じてる。何も間違ってないと思ってるし、だから、いくらでも相手を踏みつぶせるしすりつぶせる。そしてその行為に少しも良心が痛まない。だって正しくて世の中のためになることをしているから。正義をふるう人たちは容赦をしないし、悪を懲らしめているから、常に悪いのは相手で自分は一切間違っていないと思ってる。
自分が正しいことをしてる、と思ったときは、たいてい、この、“正義”側にいるので、振り返って気をつけなければならないですよ。



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ASKAと成宮くんの事件記事で死にたいと思ってしまった

最近心が弱くなってしまって、本当に、些細なことでも、“死にたい”と思うようになってしまった。成宮くんの記事で、そしてその報道のされ方で本当に傷ついてしまった。薬物をやっていた、それ自身は責められることだけれども、それ以外の彼がゲイであるとか(その真偽はちょっと不明だけれども)そういう、他人のセクシャリティで騒ぐのは、本当にひどい、残酷だし、そもそも人の、そういう性的な志向で、人を差別したり区別したり判断するということ自身にとても傷ついて、本当に悲しくなって辛くなった。世間一般の人がそれで騒いで、twitterのタイムラインもそれで埋まって。それだけでもつらいのに。もっとひどいことがある、マスコミだよ。


テレビとか、新聞とか、雑誌とか、そういう、社会の正しさを建前でも背負っている媒体が、他人の性的な問題を面白可笑しく騒ぎ立てたり、ネタにしたり、そういうことをしてしまうということも恐ろしい。そもそもマスコミというものは権力で、そして、その振る舞いは暴力になりうる。だから、ほかの政府やそのほかの権力と同じように、自制と、正しさが求められる。少なくとも建前としては。そういうのを守っているからこそ、マスコミの報道や、放送に特権が与えられている。


今回の事件で、いや、それ以前からだけれども、そういう建前を破って平気なのが恐ろしい。力や権力を持っている人間が、“正しさ”や“ノブリスオブリージュ”を失って、自分たちの、金儲けのためや利益のために行動してしまう、それが許されてしまう社会が、本当につらい。そういう世界に生きているということがつらい。


ASKAの時もそうだったけれども、ほとんど盗撮のタクシー画像を、平気でテレビで流している。あれは、そういう他人のプライバシーをタクシー会社が流すことも犯罪だし、それを知っていて流すというのも、(たぶん、善意の第三者、それを知らなかったというふりをするのだろうと思われる、それも本当に嫌だ)犯罪だ。そもそも、逮捕の段階では、容疑者で、実際に裁判で決着がつくまでは、白として対応しないといけないのに、普通に逮捕の時点で犯人として扱っている。


ASKAのあの時の様子、そして、はてなで書かれている記事をみると、どう見ても統合失調症を発症している。(それがもともともとのものなのか、それとも覚せい剤の影響で脳がダメになってしまって発症したのかはわからない。そもそも、病気の発生理由で、患者が差別されるべきではない。長谷川豊氏の、人工透析の話と同じだ)素人判断にはなるけれども、でも、それでも、あの状態が演技でなければ間違いないだろうと思う。


統合失調症の理解はとても遅れている。というか世間からはキ○ガイとしか思われていない。実際には程度もあるし、薬である程度治まる。統合失調症に一番良くないのは、“本人の不安”で、それを和らげることが一番必要なのに、マスコミは、ASKAの被害妄想を強化するような、盗撮、監視をずっとしていたらしい。タクシーの画像にしてもそう、あれは、監視されてるに等しい。そういう状況に置かれると、どうなるか。不安が増大して統合失調症の症状がひどくなる。必要なのは、投薬と信頼できる人間との、ほかの刺激をたった平和な暮らしなのに、それを奪うようなことをしていた。そういうことをしておきながら、「はやく立ち直ってくれるといいですね」みたいなコメントをしているマスコミの人間の無責任と、あいてのことを知ろう寄り添おうとしない姿勢にとてつもない偽善を感じる。ちょっとでも調べれば、それが統合失調症の症状だとわかるし、何をするべきかわかるだろうに。


統合失調症と同じように、薬物依存についても、それの難しさというものを少しでも勉強して理解すれば、それがどんなに苦しいかわかるはずなのに、「はやくたちなおってほしいですね、応援しています」で済ませる。薬物は自分でやめることができない。施設に入って、絶って、メンタルを鍛えて、そういうことをしてやっとシャバに出れるけれども、それでも、一度嗅いでしまったらそれで、元の木阿弥、今まで頑張ったことが全部リセットされてしまう。


たぶん、そういうことって、自分が自分でなくなる、というような、そういう体験をしていないとわからないんだろうなと思う。本当に自分の精神力だけでなんとかなると思っているのだろう。大体の人はそうだ。自分の想像できないことはないこととして扱うし、他人のできないことを全部意思の弱さで片づけてしまう。人に寄り添うことが出来ない。想像力がない。だから、他人が、死ぬほど苦しんでいたり、人生で、かけがえのない大切なものを平気で傷つけることができるのだと思う。


新聞で、「ゲイ引退」という一面の見出しをみた。本当にひどい。そして、そういう、他人の傷やつらみを平気で踏みつけて、本人が死にそうになっていたり、殺してほしいと思うくらい苦しませたあとで、しれっとした顔で「早く立ち直ってほしいですね」「元気な顔を見せてください」というような、社会が恐ろしい。そういう世界が怖い。完全にパラノイアだ。


そういう、世界で、生きていかないといけないのか、と思って、自分は、もう、死んでしまいたい、とそう思った。



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正義の人たちがインターネットを殺した

こことは別に、自分の日常を描いた日記があったのですが、消しました。


1999から、いろんなサイトを作っては消してきました。
いろんなところで書いては捨てとしていた文章です。おもに日記であったり、自分の周りで起きた出来事について、思ったことや感じたことをオチもなくつづった文章です。
特に見て楽しいものもないけれども、生きてきた記憶として。
昔は、一日の辛いこと、人生で考えること、どうしようもなくなった憤りや苦痛を、全部文章に書き起こして、それを外部化していたのだけれども、最近、それがうまくいかなくなっていて。
それは自分が昔に比べて物を考えなくなったのもあるだろうし、インターネットが変わってしまって、自分の考えや、気持をうまく表現する場ではなくなり、自分のことよりも、みんながみていて、役に立つことや、考えのヒントを各場所になってしまったからだろうと思う。
自分のブログは、自分のブログではなく、公共のものになってしまった。誰もが、誰かの目を気にして、文章を書く。みている人を想定して文章を書く。
昔のインターネットの文章は、例えるなら、海に流すボトルのようなもので、どこかに流れ着いて、誰かに届けばいい。そんな感じのものだった。
ブログというのは、リアルの人間関係から切り離された、全く、普段の自分のペルソナ、対外的に見せている顔とは別の、いうなれば“本当の自分”というものをさらけ出せるものだった。誰かへの悪意。自分への悪意。世界への悪意。そういう普段生きていて、意識をしてはいけないと思いながら生きている日常から、遊離して、全く別の、自分の深い所にある人格と意思を吐き出す場所だった。




今のインターネットは、リアルの自分と結びつきが強すぎると思うし、また、みんな、ブログの上でもペルソナをかぶって生きている。辛いこととか、そういうのを出さずに、楽しいこと、こんなに大成功しました、とか、これこれの商品を買ってとてもよかったとか。リアルの人間関係よりももっと分厚いペルソナをかぶっている。それがいいか悪いかは、特に問わないけれども、生きづらいだろうなと思うし、彼らの、本当の自分、自我、自己というものはどこにあるのだろうと思う。難しい。生きるのも、考えるのも、感じるのも。




楽しいことって大切だし、自分に言い聞かせていれば、気のせいでも楽し気持ちになれる。でも、人間、どこかで弱音を吐かないと生きていけないし、そういう場所は誰にだって必要だと思う。
インターネットがずっと、自分にとってその場所だったのだけれども、どうにも、最近、そうではなくなってしまったような、気がする。息苦しい。




最近のインターネットは、“正しい人たち”“正しくて普通の人たち”が多すぎるし、そういう人たちは、正義のためなら、どんなことをしてもいいと思っている。
苦痛で、ほかに言葉を放つ場所がなくて、負の感情を吐き出す場所がなくて、それをインターネットに放流したとする。そういう言葉というのは、たいてい、強い言葉であったり、誰かに対して不快である言葉であることがおおい。"日本死ね”とか“おれが幸せになれないのは全部女が悪い”とか。
そういう、その人の絶望の叫びに対して、それをたまたま見つけた、正しい人が、周りの、正しい人たちに拡散する。正しい人たちは、その人をよってたかって、ぼこぼこにして、正しさで押しつぶす。もともと、その言葉を発した人は、その言葉が、間違ってるのもわかっていて、それでも、自分の命や命よりも大事なものを守るために、その言葉を、海に流すボトルに入れて流したのに。だけど、今のインターネットには、海に流す、宛先不明のボトルというものは存在しない。必ず、誰が流したのか特定して、そして、その言葉に対しての責任を取らせようとする。言葉の是非だけではなく、その人の人生や、生き方や、その人の社会的な地位も含めて。正義のためなら何をしてもいいと思っている人たちは、その人を殺すつもりで殴ってくるし、その人がたとえ死んでも害虫が一人消えたというくらいにしか思っていない。



そして、“正しくて普通で正義のために何をしてもいいと思ってる人たち”の次にやってくるのが、“ただ、誰でもいいから、一方的に暴力をふるいたい人たち”彼らは、自分たちに正義があって、相手がなにも言えないのをいいことに、ただただ自分の気持ちよさのために、殴りまくる。相手が弁護しても、助けてといっても、自分たちに側に正義があるのだから、相手のそういう言葉は、ただの“責任転嫁”であり〝自分のしたことを反省していない”言葉としてさらに、相手を殴る材料になる、インターネット上からいなくなったり、または相手が死ぬまで、本当に殴るのをやめない。
その人の日記の中に、日常のことが書いてあれば、そこからその本人を特定して、名前住所をさらして、たたくなんてことも平気でする。人にはいろいろな事情があるのに、そんなことはお構いなく“自分の常識や倫理”を“世間一般の普通の倫理”として、その人の人生や生き方や考え方や生活を否定する。


それをされる、というのは、どういうことか。
魂からの、“負の感情の発露”の文章、言葉というものは、“その人のパーソナルの一番繊細でデリケートな部分”から発せられるものだ。〝生身のその人自身”“命と同じようの大切で大事なものだ”それを、罵倒して、踏みつぶしてすりつぶす。正義の名のもとに。



いつの間にか、インターネットはそういう場所になってしまった。



誰も、本当の自分の話をしない。自分にとって、大切なことを話さない。自分の、生きるよすが、自分を苦しめる本当の苦痛について話さない。


インターネットからは、本当のことはなくなって、キュレーションメディアのような、“お役立ち情報”と、面白い小話だけが、どこまでもどこまでも広がる、人間のいない荒野になってしまった。



日記的な文章を、たぶん、もう、僕は書かないだろうし、書けないだろうと思う。



1990年に生まれた、マスではない、個人が自分の人生を誰かとひそやかに共有できるようなインターネットは、もう、終わってしまったんだ。





どうもうまく伝えられなかったみたいなので、続きを書きました。
nectaris.hatenablog.com


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