マイルドヤンキーにさよならを

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血統書つきの動物が嫌い

なぜなら病気に弱いから。


血統書っていうものは、みんなご存じの通りその犬や猫が、どこどこの血筋を引いて、名前のある品種であるものを証明するものです。
こういう風にかくと、「身元と血筋がはっきりしているんだったら病気に強いんじゃないの?」って思う人が多いと思います。
しかし実際はその逆で、とても体が弱い、遺伝病を持っていることが多いんです。


なぜかというと、血統書つきの犬猫というのは、その品種を維持するために、近親交配を続けることが多い。直接の近親交配でなくても、いとことか、またいとことか、そういう親戚レベルの血の近さで、交配を続けていきます。そうすると、どうしても遺伝病が発現するリスクが上がっていきます。片方の腎臓が動かなかったり、目が見えなかったり、生まれつきそういう障害を持った子供が生まれやすくなります。そういう障害をもっていても、外側からわからないあったり、発言するのが大きくなってからの病気の場合、普通にペットショップなどで販売されていきます。ブリーダーも、ひどいブリーダーはとりあえずはやってる種類の犬種、猫種を大量生産するために、狭い部屋で近親交配を繰り返して、遺伝的に弱い子供を大量生産して、それをペットショップに卸します。ペットショップで、血統書つきで売られてるペット、ちゃんとしたブリーダーで血族の近さに気をつけて育てられた犬猫を販売している良心的なペットショップもありますが、そういった、ひどい育て方と販売方法をするペットショップもあります。



猫種によってよくみられる遺伝病で有名なところではスコティッシュフォールドの遺伝性骨形成異常症、エキゾチックショートヘアの多発性のう胞腎、メインクーンの、拡大型心筋症と股関節形成不全などがあります。それ以外にも、遺伝によって引き起こされる病気は、近親交配の割合が高くなれば高くなるほど、発現率も高くなります。猫よりも、犬のほうが、遺伝病、その他の病気を発言しやすいのは、犬のほうが人間によって品種改良されてきた歴史が長いからで、その分、遺伝子の多様性が少ないからだと言われています。



http://www.pet-hospital.org/cat-006.html
ここのサイトに、血統書の猫に多発する病気が出てますけれども、もう、病気のデパートみたいになってます。(その中にあるジャパニーズボブテイルの健康さ?)




ですので、犬猫を飼う場合、ペットショップで買うのをやめてほしいのです。
ちょっと調べれば、犬猫の里親探しをしている団体や個人が見つかります。犬も、猫も雑種のほうが基本的に体は強いですし、そういう場所で、飼い猫、飼い犬を探すことによって、殺処分される予定の動物が助かります。



あと、猫を飼い始めた場合、1年くらいで性成熟しますので、必ず避妊をしてください。動物がかわいそうでしたくない、という人もいるんですけれども、実際、子供が生まれて、その子供をどうするのか、と考えてください。その子供たちも一緒に飼える余裕があるのかどうか考えてください。



とりあえずカルタゴと同じレベルでペットショップは滅ぶべきだと思ってるよ。





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世の中に、暴力をふるうつもりで暴力をふるう人間はいない

生きてる上で、暴力にさらされることってよくある。
会社からだったり、社会からだったり、上司からだったり、配偶者からだったり、親からだったり、先生からだったり。
あ、この場合の暴力というのは、力づくの暴力ではなく、他人の存在を否定したり、生き方のルールを勝手に敷いたり、人の人生のほかの選択肢を力づくで踏みつぶしたり、その自分の人生を人質にして相手に言うことをきかせたり、そういうことです。



で、そういうことってよくあるんですけれども、そういう暴力を振りかざして、他人をつぶす人間って悪意でやっているのではない。むしろ善意で、正しいことをしていると思ってやっている。



タイガーマスクが孤児院にランドセルを贈るという事件がある。
これに対して、ほとんどの人は、“良いことだ”“心の温まる出来事だ”と思うだろうけれども、実際のところ、このランドセルを贈るということは、ジャマ、ゴミ、他人の迷惑になる行為でしかない。ひとりよがりのオナニーみたいな行為だ。



実際に孤児院には、学校への進学の補助があり、ランドセルを買う金額がそこから出されていて、孤児の子供たちはそこから自分の好きなランドセルを買うことができる。タイガーマスクから送られたランドセルというのは、本当に、無駄なのだ。そして、そのタイガーマスクの行為というのは、孤児院の子供たちに対する、侮り、“こいつらは貧乏で、悲しい思いをいつもしているだろう、ランドセルを買う金もないだろうから、ランドセルを贈ってやれば喜ぶだろう”という一方的な決め付けがある。



例えば、ワタミの社長は、社員を低賃金で働かせて(お客様のありがとうが報酬なので、それ以外の賃金は必要ないらしい)すりつぶして、無理というのはうそつきの言葉だと言って実際に死んでしまうまで働かせた。そして、それを、正しいこと、だと思っている。実際に、彼女が死んだときに、「彼女の気持ちを受け継いで会社を大きくしていきます」というようなことを言っていた。そして、それを責める家族に「一億欲しいのか!」という言葉を吐いた。おそらく、このワタミの社長の言葉は、この人物の本心から出た言葉なのだと思う。彼の中の正義から出た言葉で、だから、自分の価値観で世界を図ったときに、その死んだ社員は、会社のことを思って死んだし、それを非難する家族は“悪”なのだろう。



タイガーマスクとランドセルの話は、そういう、“他人の善意の押しつけ”の一例だけれども、こういう出来事はほかにもある。相手の内面や、置かれている状態をろくに知りもしないで忖度して、自分の勝手な思い込みでアドバイスをしたり、可能性を狭めたり、選択肢をつぶしたり、行動を強制したり、ルールを押し付けたり、一方的な約束を決めたり、新しい全く役に立たない行動を行うように仕向けたり、人生がぎりぎりでほかの選択肢を取ることができず、苦肉の策で選んだ選択肢を“それはあり得ない選択肢だ”と言って、つぶしてきたりする。。それが断れない立場なので、押し付けられた方法をとるしかない。そして失敗しても彼らは決して責任をとらない。大体の場合、ちゃんとやらないからだ、頑張らなかったからだ、一生懸命やれば何とかなった。おれは何とかなったのに、何でお前はそれが出来ないんだ。そういう風にいう。



そして、もし、彼らのいうことを聞かなかったり、否定したりすれば「おれが善意でやったことを何でお前は否定するんだ」と言って、怒り出す。彼らは正しいことをしているつもりでも、実際は、自分が“正しいことをして力をふるうというオナニー”をしているだけなのだ。



タイガーマスクのような善意や正義の場合は、逃げることができるけれども、ワタミの社長のようなレベルの善意や正義は圧倒的な力の暴力で迫ってくるので、逃げることができない。ワタミの場合は一企業の正義と善意だから、まだ、会社を退職するなり不買運動をするなりで、対処はできるかもしれないけれども、たとえばこれが国家による正義の場合、海外に避難などのできない私たちはただただつぶされるだけだろう。たとえば、アメリカのトランプとか、日本の親子断絶防止法とか。これらも、善意と正義であるし、そして暴力だ。


正しいことをして力をふるうオナニー、というのは厄介で、それをふるっていることは自分では気がつかない。世の中でよく言われる“アドバイス罪”というのも、この一種だ。「誰か困ってる人に、アドバイスする、相手の役に立っている俺かっこいい、正しい。」そういう感覚というのは気持ちいい。相手に一ミリも役に立ってないどころか、相手のメンタルをクソリプでヤスリで削るみたいにすりつぶしているにも関わらず。大体のクソリプは、“相手のため”と本人は思って書いている。周りから見たら悪意に見えるような書き込みも、実は書き込んでいる本人とってはほとんどの場合、正義であり、思いやりなのだ。



これに関しては、書いている本人は気がつかない。どうしようもないし、人間の仕様上のセキュリティホールのようなものだ。そんなくそリプを送るのなら、何も言わずに相手に500円分のアマゾンポイントでも送るほうがよっぽど相手のためになる。そういう人間に限って、「魚を与えるのではなく魚の取り方を教えるべきだ」という。でも、世の中で生きているほとんどの人間は、実際、魚の取り方を知っているものだ。だって、その人は、いままでの人生を何とか生きてきたのだから。その人なりの魚の取り方、野草の探し方、獲物の殺し方、さばき方を知っていて、それでも、たまたま、獲物が取れないときがある。そういうときに必要なのは、“魚”なんだ。



その、苦しんでいる人をみて、“魚の取り方”を教える人というのは、“魚の取り方”しか知らない人で、だから、今までその人がその人の人生で、どのようにして、獲物をとって生活の糧を気づいてきたのかに思いが浮かばない。たとえそのやり方を聞いたとしても、魚の取り方しかその人は知らないし、野草の探し方を聞いたとしても野草を探すことはできないだろう。(同様にその苦しんでいる人も魚の取り方を聞いても容易に魚をとることはできないはずだ。)“アドバイス罪”の人は、自分の価値観で他人を断罪しているにすぎない。本人はその人のためにやっていると信じているのだろうけれども。



善意や正義を誰かにふるうときは気をつけないといけない。それは、本当に相手のためになっているのか。本当に相手のことをおもっているのか。自分が気持ちいいためにやっているのではないのか。もし、本当に相手のためを思ったり、しているのなら、まず、自分の持っている魚を相手に与えるべきだ。自分の財産や血肉を相手に与える覚悟があるものだけが、誰かに、“お前のことを思っているし、お前のためにやっている”と言えるのだと思う。



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インターネットではかつて、“普通の人”の日常の話が読めた

先日書いたこちらの記事の補足です。

nectaris.hatenablog.com



どうにも誤解されている感じなので書いておきますけれども、自分が、そういう風に自分の話を書けなくなって嘆いているのではなく、どこか、知らない誰かが、自分の日常の些細な、けれどもどこにも日常では吐き出すことのできないそういうシコリや思いのかけらが、放流されていたのがかつてのインターネットで、そして、そういうインターネットを僕は愛していて、そしてそのようなインターネットがなくなってしまったことを嘆いているのです。



自分の経験の話をします。
かつて、自分の好きなサイトがありました。そのサイトは、70代の方が運営していたブログで、毎日のちょっとした思ったこと、感じたことを日記にして書いているブログでした。特に落ちもなく、他人に見せるための書き方の文章でもなかったので、日々の記憶のメモだったのでしょう。そこで書かれていたことは、たぶん、その人が普段言うことのできない、妻への愚痴であったり、友人への愚痴であったり、また反対に、妻への感謝の言葉であったり、子供とその孫のこと、たぶん、思い出したけれども、誰にも話していない、昔の思い出であったり、日常では決して吐き出すことのないであろう、その人の人生の一部でした。写真があったり、俳句があったり、一応、ブログ村のような、ランキングにも登録していたので、誰かが見るであろうことを想定していたのだと思いますが、本当に素朴で、人生を切り取った感じがして、良いブログでした。



で、その人が、ブログで、「最近の若者は物欲がない、車も、バイクも買わない。自分のときは欲しいものがたくさんあったから頑張って働いて、そして自分の稼いだ金で買ったものだ」というような、日記を書いたんです。それは、その人がリアルの日常で出会った、店の中での出来事だったのだけれども、それが、どこかのtwitterで拾われ、拡散されて、コメント欄も荒れて、そのおじいさんは謝罪をしたんですが、そのまま、サイトを閉じてしまいました。



普通の日常を送っている人の、素朴な考えが140文字でなく、もっと長い文章で読める、というのは、とても貴重です。自分以外の人間が、どうやって物を考え、何を見て、何を感じて生きていくのか。そしてその自分の人生をどう受け止めているのか。確かに、ほかの短文投稿サイト、たとえばtwitterを、他人の目を気にしないで見せるためではなく、自分のライフログのように使っている人もいます。しかし140文字はあまりに短い。140文字であらわされる文章は感情の反射なので、その人が、心の奥底でどのように自分と世界をとらえているのか、それをわかることはできません。



そのように、普通の人が、自分の感情を日記のように書くのなら、SNSにしろ、という意見もありますが、決して、SNSも安全な場所ではないし、それにそういう場所で書かれたら、私が見ることができないじゃないですか!自分はそういう、人間の文章が見たい。きゅレーションサイトや、アフィリエイトサイトのような、人間なんだかロボットなんだかがかいたのかわからないような文章ではなくて。



でも、結局、今、インターネットで生の人間の文章を書くことは難しい。炎上しないように気をつけていても、炎上することはまれにあるし、その場合、自分自身の誰にも話していない一番大切で繊細な部分を記したブログは、自分自身そのものなので、ダメージが半端ない。



結局、今、インターネットで生きてブログを書いていくことができるのは、ロボットみたいなアフィリエイトブログか、メンタルがものすごく強いブロガーか、ちゃんとインターネットのリテラシーが高くて、絶対に炎上しない記事を書けるプロのライターれべるの文章能力の持ち主、ということになる。とくに、アフィリエイターみたいな、自分の言葉でもない、誰かの記事を編集してはっつけるだけのブログなら、内容でいくら炎上しても全然傷つかない。だから、そういう、ロボットみたいなブログがどんどん増えていってるのが、今の状態なんだと思う。



誰にも見せるつもりはないけれども、誰かに話したい、王様の耳はロバの耳みたいな、そういう、個人のささやかなブログ。自分はそういうものがみたい。それが唯一みれる媒体がインターネットだったんだけれども、(ほかの書籍とかだとどうしても他人に見せたいという自我が出てきてしまう。文学フリマでも時々いいものがあるのだけれども、やっぱり、エンタメ色というか『見る人の目』を意識したものになってしまう)それは、もう失われてしまったのだなあ、と思った。前回の記事で書いたのは、そういうことです。自分は、もう、護身完成しているので、そう簡単に炎上もしないし、炎上してもそんなにダメージは受けないよ。前回の記事の冒頭で書いた閉鎖したブログというのは、そういう自分自身の日記みたいに書いていた、そして、もうずいぶん更新していないブログを処分しました。そのブログから張ってるかつてのリンク集からリンク先へ飛んだんだけれども、ほとんどのサイトが閉鎖したり、2009年あたりで更新が止まっていたよ。




あと、悪意と善意(正義)について。
あとでまたちゃんと書くけれども、「日本死ね」と書いた増田は悪意で、「死ねとは何事だ!口汚い!日本が死んで困るのはお前だ、日本から出て行け」って言った側が、正義、です。
すりつぶされてすりつぶされて、そして口から出た呪詛が日本死ね、なので、あれは、悪意からでた言葉だし、「死ねとは何事だ!口汚い!日本が死んで困るのはお前だ、日本から出て行け」といった人たちは、自分たちが、正義だって信じてる。何も間違ってないと思ってるし、だから、いくらでも相手を踏みつぶせるしすりつぶせる。そしてその行為に少しも良心が痛まない。だって正しくて世の中のためになることをしているから。正義をふるう人たちは容赦をしないし、悪を懲らしめているから、常に悪いのは相手で自分は一切間違っていないと思ってる。
自分が正しいことをしてる、と思ったときは、たいてい、この、“正義”側にいるので、振り返って気をつけなければならないですよ。



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